2019年12月12日木曜日
音楽の進化
あるとき思った。
ボーカリストやリードの存在意義は何か
現在溢れている音楽には当たり前のようにリードがある。
なぜ音楽にリードがあるのか
リードボーカル
リードギターなど
たぶん雰囲気だけだと暇だからだろう、と思う。
それにバンドで曲想を練るときもリードが要る要らないか、曲の隙間を埋める音をどうするか等を考えている。
でないとリスナーを退屈させたり、どの音を集中して聞けばいいか迷ってしまう。
ではリードだけの音楽はどうだろうか。
いうまでもなくリードだけだと寂しい。
リードと伴奏が揃ってやっと「普通の音楽」と定義できる気がする。
さて、なぜ雰囲気だけではいけないのか、リードだけではなぜいけないのか
例えば芸術やアートが世界を模したものであるなら、伴奏は何に値するのだろうか。
おそらく身の回りに溢れる音は生活音と定義される。
まさしく雰囲気の音である。
森林を散歩していたら鳥のさえずりだったり草木や虫の音だったりする。
とつぜん楽曲が流れることはない。
かと言ってリードも流れない。
環境音だけである。
リードは発話者や会話者との声などとも考えられるが、音階を奏でることはないだろう。
主役の音として、声が鳴っているだけである
おそらくリードと伴奏は、誰かが定義して、それに慣れた人々がいて、習慣化したものである。
グレコリオ聖歌のような賛美を称える歌がより具現化して、演奏しやすく雰囲気を伝えやすく形を変えていき、さらにセンスがある人がバランスを整えて形にしたものが、現在の最新の音楽なのだろう。
そして後追いで声はリード、環境音は伴奏と定義し始めて変なことになってきていると思う。
今まだ音楽は進化過程である。どっちがどっちなどと安易な言葉で定義して縛りつけるべきではない。
音楽はまだ進化する。
技術や人々の考え方、世界情勢等その時代によって音楽はまだまだ変化する
雰囲気だけの音楽は受け付けない世だが、明日の音楽の形は誰にもわからない
変遷をへて、形を変え、進化をする。
ある意味では世を模した、生きた何かである。
まさに進化した音楽は今日も存在しているが、変化に取り残された音楽は消えていく。
数年のあいだにアンビエントやグリッチホップなど消えていったジャンルは数知れない。
変われるものだけが生き残る。
私もそう生きたい